発酵とパン今昔物語

6000年も前から、人はパンを食べていた?

 人類とパンの出会いは古く、何と起源前(B.C.)4000年頃、今から約6000年前にまで遡ります。発祥の地は古代中央アジア・メソポタミア地方。人類最初のパンは、“無発酵パン”と呼ばれる薄く平たいものでした。現在もインドやパキスタンなどでポピュラーな「チャパティー」は、この無発酵パンの一種です。
  一方、現在の主流となっているふっくらとした“発酵パン”は、ちょっとした偶然から生まれたといわれています。夏の日に、あるユダヤ人の女性が穀粉を水に浸そうとして、うっかり蜜を薄めたカメに入れ、そのまま忘れてしまいました。2、3日後、カメから甘酸っぱい匂いがしましたが、気にも止めずいつものように団子状に練って焼いたところ、一種の発酵パンができたそうです。これは野性酵母の働きによるものですが、それを当時の人々が知る由もありません。生地を寝かせてパンをふくらませる製法だけが定着していったのです。
  このほか、パンの起源をエジプトとする説もありますが、いずれにしても、製パン技術はイオニアを経てギリシアへと伝わり、パンは人々の常食となっていきました。

ギリシアを渡ってローマで広がったパンの製法

 イオニアからギリシアに伝わったパンは、マゲイロスと呼ばれるパン職人によって店売りされるようになり、やがてヨーロッパ全土へと広がっていきます。そのきっかけはB.C.168年、古代ローマとマケドニアとの間に起こったピュドナの戦いです。勝利したローマ軍は、捕虜としてパン職人を自国へ連れ帰り、その技術を修得。B.C.100年頃には、ローマ国内に258件ものパン屋さんができ、同業者組合まで組織されたそうです。
  当時、パンはその生地の一部を種として残し、それを次の仕込みに使うという製法で作られていましたが、発酵のメカニズムまでは知られていませんでした。製パンは、職人の経験と技術に頼るいわば神業であり、経験や口伝によって製パン技術を会得した職人の地位は極めて高くなりました。このことから、パンは神の恵みとして崇められたり、結婚式などの特別な日に用いられる食品でもありました。

 パン作りはローマで発展しましたが、ローマ帝国の滅亡とともにパン屋さんはなくなり、パンは一般家庭で作られるようになります。とはいえ、製パンの高等技術は教会に独占されたり、また、中世には領主が家庭での製パンを禁止、みずから製粉所やカマドを所有して人々から使用料を取ったりした時代もありました。
  こうした風習も13世紀頃にはなくなり、街にはパン屋さんが復活。一般家庭から製パンを請け負うようになり、パンの品質も向上しました。そしてルネッサンス文化の広がりとともに、パンはフランス、オーストリアをはじめ、ヨーロッパ全土へと普及していきます。その後、15世紀頃にはフランスのフランスパン、東欧やロシアのライ麦パンなど、各国の風土に合った多種多様なパンが作られるようになりました。
 とはいえ、当時のパンは、その製法の特性上極めて酸味が強く、現在のパンと比べると美味とは言い難いものだったようです。

発酵のナゾを解く鍵は顕微鏡の発明にあった!

 全ヨーロッパにパンが普及した15世紀以降も、製パン技術は依然としてパン職人の親方たちに独占されており、発酵の原理も謎のままでした。当時の製法は、ビールの醸造時に生じる沈殿物をパン種として生地に混ぜ込むというもの。つまりビール酵母を用いていたわけですが、パン職人たちも、なぜパン種でパンがふくらむのかは知らずにいたのです。
  パン種の正体が明らかにされたのは、17世紀も後半の1683年のこと。発明者はオランダのレーウェンフック--そう、顕微鏡を発明した人です。彼は顕微鏡を使って、肉眼では見えないミクロの生命体、「酵母(イースト)」の存在を確認。同時に、酵母の分離培養にも成功しました。 ここから始まる酵母の研究により、パン種、つまりイーストも様変わりしていきます。18世紀には、ビール酵母に代えてアルコール製造の副産物である酒精酵母が、次いで19世紀初頭には酒精酵母を圧搾した圧搾酵母が使われるようになりました。

パンをふくらませる原理を解明したのはパスツール

 19世紀に入ると、ヨーロッパ各国では酵母工業の気運が高まり、イーストを培養するための研究が活発化します。ドイツやオーストリアでは、良質なイーストの製造に賞金がかけられたほどでした。
  そして1857年、ついに発酵の原理が解明されます。その立役者はフランスの偉大な生化学者であり、医学者としても知られるパスツール。彼は「酵母が糖をアルコールと炭酸ガスに分解する」ことを初めて理論的に解明し、この成果を受けて酵母の研究は大きく進歩します。ヨーロッパ各国で圧搾酵母工業が成長をとげ、1880年以降には著名な醸造学者も世に出るようになりました。ここに来てようやく、6000年近い歴史をもつ発酵パンの製造技術が裏付けられたのです。

第一次世界大戦が、酵母工業をさらに発展させた?!

 圧搾酵母工業は、20世紀に入って飛躍的な進歩を遂げます。そのきっかけとなったのは、意外や、第一次世界大戦でした。
  それまで、酵母製造の主原料には大麦・ライ麦などの穀類や、馬鈴薯(じゃがいも)などから採れるでんぷんが使われていましたが、戦争によってこれら原料の入手がむずかしくなりました。そこで、ドイツの酵母製造業者たちが代替物として廃糖蜜や肥料の硫安を使ってみたところ、良質な酵母が大量に生産できたのです。さらに彼らは、酵母をパン種だけでなく、食用たんぱく質として供給し、人々を驚かせました。こうして大量生産を実現した酵母工業は、戦後も発展を続け、それとともにパン工業も食品産業の大きな柱へと成長していったのです。

発酵─限りない可能性を秘めた生命の活動

 今日、世界中で、ふっくらと豊かな食感を持つ発酵パンの数々が主食として定着しています。
  6000年という長いパン食の歴史を通じて、人は酵母とそれがもたらす発酵の恩恵を受けてきました。しかし、発酵の原理がパスツールによって解明され、人類がその研究を始めたのはわずか140年ほど前のこと。発酵技術は現在、パン・酒などの食品から医薬品、バイオ関連製品などに広く活用されていますが、発酵のメカニズムには、未だ解明されていないさまざまな不思議が残されています。酵母と発酵から始まる新しい世界、その可能性は限りなく広がっているのです。