イースト来日絵巻

鉄砲とともに、日本に上陸した「パン」

 古代メソポタミアで生まれ、ヨーロッパに普及したパンは、16世紀になって日本にもたらされました。1543年、大隅国(現在の鹿児島県)・種子島にポルトガル船が漂着し、鉄砲をはじめとする南蛮文化が伝来したことは歴史の教科書でもお馴染みの話。実はこのとき、パンも日本に上陸していたのです。
  鉄砲が、かの織田信長に珍重されたのは有名な話ですが、一方のパンはほとんど話題となっていません。米食中心だった当時の日本人に、その味はあまり受け入れられなかったようです。南蛮文化に心酔した信長はパンやケーキも好んで食べていたようですが、本当においしいと思っていたかどうかは疑問です。好奇心から食べていたのかも知れませんね。

鎖国政策のなか、パンは姿を消していく

 信長の時代にはパンを食べる武士もいたようですが、パン食はその後、普及とは程遠い運命をたどります。秀吉によってキリシタン禁止令が敷かれ、さらに江戸時代には鎖国に至るにつれて、国内に西欧文化弾圧の色が濃くなっていくのです。パンを食べるだけで「隠れキリシタンだ」と噂される風潮のなか、パンはやがて、出島のオランダ商館など限られた地域以外には一切存在しなくなりました。

意外な活用法─パンは画期的な「戦術」?

 そのパンが、江戸末期になると意外なところから注目されます。日本のパン祖として知られる江川太郎左衛門英竜(坦庵)が、「戦術」のひとつとしてパンの採用を推進したのです。1779年の露艦来航以来、外敵に備えた軍備の必要性が高まるなかで、伊豆韮山の代官だった坦庵は蘭学を通じてパンの存在を知り、その保存性・携帯性の良さに注目。米のように敵前で火を炊くリスクも避けられると、兵糧に採用することを思いつきました。
 こうした経緯から、彼が長崎・オランダ屋敷の料理人の協力を得て最初に製造したパンは、乾パンやビスケットに近いものだったようです。坦庵のほか、薩摩藩主の島津斉彬や、水戸徳川家も兵糧としてパンを採用しましたが、これらはいずれも一般の食用ではありませんでした。

鎖国によって日本でもパン文化が花開く

 パンが日常食として日本に登場するのは、1859(安政6)年、横浜、長崎、函館の三港が開港され、外国人居住地が設けられてからです。パンを常食とする居住地の外国人は、雇った日本人に製パン技術を教えてパンを焼かせました。こうした人がやがてパン職人になったほか、港町には外国人が経営するベーカリーも出現。外国人と接する機会の多い官僚や商人を中心に、日本人は徐々にパンと馴染んでいきました。

明治時代に大ブームとなった日本独自の菓子パン

 明治2(1869)年、日本人の経営による初めてのベーカリー、文英堂が開業。現在、製パン会社の老舗として知られる銀座・木村屋総本店の前身です。その後、ベーカリーの増加とともにパン食も普及していきますが、その大きな牽引力になったのは、明治7(1874)年に発売された「あんパン」でした。絶妙な和洋折衷をしたその味は、パンに対する日本人の違和感を取り除き、大評判となりました。
さらに明治37(1904)年には、新宿・中村屋から「クリームパン」が発売され、これも全国に広がっていきました。

自家製パン種から圧搾酵母へ─国内イーストの変貌

 ところで、パン作りにはもちろんイーストが必要です。日本のベーカリーは、これをどのように入手していたのでしょうか。
 19世紀末頃までは、日本でもヨーロッパ諸国と同様、自家製パン種が使われていました。親方から弟子へと受け継がれる秘伝のパン種は、パン職人にとって命と同様に大切なもの。一片からでも培養できてしまうため、盗まれでもすれば一大事です。職人たちは、遊びに行くにもすべてのパン種を懐中に入れて持ち歩いたといわれるほどでした。また、この自家製パン種は、温度管理をはじめ、保管にも並々ならぬ苦心を要したようです。
  明治14(1908)年になると、ヨーロッパで開発された圧搾酵母が日本へも輸入されるようになり、ここから国内でも酵母の研究が行なわれるようになります。大正4(1915)年には、丸十ベーカリーの田辺玄平氏が乾燥酵母(マジック・イースト)を開発。次いで大正6年には、杉本隆治氏によって、発酵速度の極めて早いフライシュマン・イーストがアメリカから輸入されるようになります。これらイーストによって日本でもおいしくて品質も安定したパンが作れるようになり、パン種を利用したパン作りの時代は幕を閉じました。

安価で高品質な国産パンイーストの開発を!

 イーストの登場に伴って、国内でもイーストの研究が活発になります。というのも、マジック・イーストは純粋培養イーストでなかったため、菓子パンには適さないという問題がありました。一方のフライシュマンイーストは、マジック・イーストより質は良いものの、輸入に伴う鮮度の問題がありました。当時の冷蔵輸送設備では、なまものであるイーストを良い状態で輸入することが困難だったのです。また、輸入も少量ずつとなるため、価格も高くなりました。
  こうした状況の一方でパンの需要は徐々に拡大し、国内では新鮮で安価なイーストを求める声が高まってきます。「純粋培養による国産イーストの開発」、この目標に向けて、イーストと関連の深い製パン、製粉、そして醸造などの各業界が動き出します。昭和2(1927)年、大阪の大手製パン業者・マルキ号製パンによる「マルキイースト菌研究所」設立を皮切りに、製薬会社の三共、ビール会社の大日本麦酒株式会社などもそれぞれ独自の研究を開始しました。

国産イーストのパイオニア、「オリエンタル酵母工業」の誕生

 そんな折、北海道帝国大学(現在の北海道大学)農学部農芸化学科出身の北嶋敏三氏が、麦芽根を利用したイーストの製法を発見。その工業化をめざした北島氏は各方面に働きかけ、2年後の昭和4(1929)年、日清製粉の正田貞一郎氏らが中心となって企業化への道をひらきます。同年6月、「オリエンタル酵母工業株式会社(OYC)」設立--ここに、日本初の酵母会社が誕生したのです。
  翌年には同社の東京工場が本格的に稼働を開始。待望の国産イーストは、市場に供給されると同時に全国に普及していきました。以降、現在に至るまで、国内イーストの歴史は、そのままOYCの歴史といっても過言ではありません。

  国産化の実現を契機に、国内ではイーストの用途開発も盛んになり、今日パン酵母は、各種食品をはじめ医薬やバイオテクノロジーなど、さまざまな分野で活用されています。パン酵母と発酵を利用した食品や医薬関連品は、人々の健康志向が高まるなか、ますます注目されるようになっています。人々の楽しい食生活、健やかな暮らしに、イーストはさまざまなかたちで貢献しているのです。